
映画考察・ゴジラ-1.0
〜敷島の戦争はどのように終わるか?〜
前編
これは本作の大きなテーマと言える。
ゴジラ映画とは言え、ゴジラ-1.0は立派なヒューマンドラマである。
尚、この記事はネタバレ考察となる。
敷島の戦争とは
典子と結婚しない理由を秋津に詰め寄られた時、敷島は、
「俺の!……戦争が終わってないんです…。」
そう言って、つけるべき “けじめ” の存在を明らかにした。
そして映画は、病室の典子が最後に向けた、
「浩さんの戦争は…終わりましたか?」
この言葉をもって締めくくられた。
果たして、敷島の戦争は無事に、またどのように終わったと言えるのだろうか?

敷島浩一
元、海軍航空隊の少尉。模擬戦ではトップクラスの実力だが、特攻から逃げて日本に帰還する。機体が故障したふりをして着陸した大戸島では、呉爾羅と遭遇し、恐怖で戦うことができず、多くの死者を出してしまう。生きて帰ってくるよう願った両親は空襲で亡くなっており、帰還した後も、海や陸でゴジラと対峙し、駆除できずに大切なものを破壊されていく。
このような境遇にあるのだが、
敷島にとって終わらせるべき戦争とは何だったのか?
それは、戦争自体でないことは確かである。
なぜなら、一兵士の力だけで国同士の戦争がどうこうなる話ではないからだ。
あくまでも終わらせたかったのは、”俺の” 戦争である。
また、ゴジラ自体も直接の “俺の” 戦争ではないはずだ。
なぜなら、ゴジラを駆除する前であっても、典子の強い励ましにより一度、戦争を「終わりに…」させかけたからだ。
そのようなわけで、
察するに、彼の終わらせるべき “自分の戦争”とは…
“立ち向かわずに逃げた自分” との戦争だった、と考えられる。
彼が立ち向かうべきであった状況とは、
戦時下には、特攻とどう向き合うかということ、
大戸島以降には、仲間の犠牲を出さないようゴジラとどう向き合うか、ということに他ならない。
彼にとって、どうすればこの戦争は終わりにできるのだろうか?
もっとも、立ち向かうと言っても、命を捨てに行くということではない。
例えば模擬空生の時、トップクラスの実力を発揮できていたわけだが、特攻となると尻込みして、後ろめたく逃げてしまった。
この自分の姿勢に、嫌気がさしたかもしれない。
特攻せず生き延びる行動をとるにしても、両親のために生きて帰る、という強い思いを恥じずに状況に立ち向かえたなら、
いくらか結果は違ってきたのかもしれない。
橘に「故障箇所が見つからない」と不審がられた時も、目を見れず逃げてしまった。
国のために命を捨てるのが当たり前な空気で、
堂々と生きることの難しさを感じさせられる。
と、ここまでなら、彼にとってまだ深い傷跡とはならなかったはずだが、
この後、追い打ちをかけるように、彼は自分の “逃げた姿勢のせい” で、(ゴジラ討伐を真剣に果たせないせいで)多くの犠牲者を出すこととなる。
大戸島、呉爾羅の襲来。
海洋でのゴジラ足止め作戦の失敗。
ゴジラの銀座襲撃、である。
次回に続くー
