映画考察・ゴジラ-1.0 中編

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映画考察・ゴジラ-1.0

〜敷島の戦争はどのように終わるか?〜

中編

敷島に追い討ちをかけるゴジラによる破壊。

彼は、“自分の戦争”にどう向き合っていくのか。

この記事はネタバレ考察となる。

広がる敷島の戦争

前回考察したように、

彼が終わらせるべき“俺の戦争”とは、戦争自体でもゴジラ自体でもなく、

“逃げた自分”との戦いだった、と考えた。

敷島が典子に打ち明けた、「俺は…特攻から逃げた人間です。」

という言葉からも、彼のその苦闘を読み取れる。

しかし彼は、その逃げの姿勢ゆえにさらに、

“自分の戦争”に、新たな苦悩を塗り加えていってしまう。

まずは、大戸島での苦悩である。

呉爾羅の脅威に面した際、彼は、生きて帰る決意をそのままに、

もっと目の前の仲間のためにも、

勇敢な姿勢で問題に対処できればよかった。

ここでも“逃げの姿勢”を出してしまい、多くの犠牲者を出してしまった。

もっとも、実際には呉爾羅から逃げなければならない状況だった。

だから、ある意味で彼は賢かった。

特攻の際も、大戸島の際も、

彼は、勝てる見込みのない状況は直ぐに見抜くことができていた。

そしてあえて無謀な行動、

いわば“死んでこいなんて命令を律儀に守る”ことはしなかったのである。

しかし敷島は、ここでも“状況から逃げない”で、

20ミリ機銃を撃つよう勧める橘を勇敢に説得したり、

整備兵を落ち着かせて身の安全を確保させたり、等にもっと尽力できたかもしれない。

一方、悪いのは橘である。

敷島が、『攻撃しても手負いにさせるだけで、かえって状況を悪くさせるかもしれない』

と判断したなら、静かに別の策を考えることもできたはずである。

そもそも、基地を壊滅させた呉爾羅を刺激したのは整備兵であり、

敷島を責めるのは完全なお門違いである。

いずれにしても敷島は、橘から亡くなった整備兵の写真を押し付けられても弁解できず、

“整備兵たちの無念”という一方的な苦悩も背負うことになる。

その後も彼の、“勇敢に立ち向かえない姿勢”は、

また、“呉爾羅を始末できなかった”一方的な責めによる苦悩は、

“敷島の戦争”の一部となり、さらに多くの苦悩を呼び寄せるものとなる。

日本に戻った際の、澄子の逆恨み。

海洋での、海進丸と高雄の乗組員の死亡。

銀座での、典子の死亡、もそうである。

ちなみに…敷島が生前の典子に、

“自分の抱える戦争”の状況について伝えた際、

典子は彼を熱く包み込み、

「それは夢!…浩さんが作った幻だよ!」と

“抱える苦悩”を、忘れて(否定して)生きるよう強く励ました。

その甲斐もあって、

敷島は一度、そうやって「もう終わりに」しようとした。

でもそれは上手くいかなかった。

ゴジラが生きている以上終わりにできない戦争に、引き戻されてしまったのである。

前を向いて生きるよう強く励ましてくれた典子の死、

という一番辛い現実によって。

しかし典子の死を境に転機は訪れた。

敷島にようやく“一切のケジメをつける”機会が訪れたのである。

これまでの経緯から、敷島が戦争を終わらせるためには…

① 自分の逃げの姿勢を無くすこと

② 死んだ仲間の無念を晴らすこと

③ ゴジラを駆除すること

…が関係するようになっていたのだが、

ゴジラを駆除する作戦が立ち上がる中で、彼に、

戦争を終わらせる妙案が浮かび、“攻めの姿勢”に転じることができたのである。

次回へ続くー

最終回は怒涛の伏線回収となる。

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