【ZIックリガイド】PR含
〜映画の合間に楽しむ少しの話のタネ〜

映画考察・ゴジラ-1.0
「典子は敷島をどのように救ったか?」前編
「ゴジラ-1.0(ゴジラマイナスワン)」の鑑賞が終わり、あれこれ思い返しているだろうか?ひとりの時間を利用して、じっくり考察するのもまた楽しいひと時だ。
典子は敷島にとって、どれほど救いとなる存在となっただろうか?
これは本作を楽しむ上で注目したい点だ。
ゴジラ-1.0は怪獣映画であるだけでなく、敷島と典子の人間ドラマであった。
尚、この記事はネタバレ考察となる。
映画『ゴジラ-1.0』は、レビューサイト「ロッテントマト(Rotten Tomatoes)」において、批評家と観客の両方から非常に高い評価を受けている。例えば、シネファンタスティック誌のスティーブ・ビオドロウスキ氏は「単なる優れた怪獣映画を超え、心を打つ、恐ろしくも最終的には救いのある映画である」と述べている。批評家満足度99% 一般満足度98% ー「ロッテントマト G-1.0レビュー」

映画「ゴジラ-1.0」考察
敷島が必要とした救い
「俺は…特攻から逃げた人間です。」
敷島が抱えていた苦悩は、
この言葉に要約される。
彼は、自分が胸を張って生きれない、「生きてちゃいけない」人間だと考えていた。
自分の逃げた姿勢のせいで、
国の期待を裏切り、仲間を見殺しにし、
手がつけられないほど凶暴化した怪物、ゴジラも生んでいた。
そして彼は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っていた。
そんな傷だらけの敷島と、闇市で出会ったのが典子である。
大石典子
空襲に逢い、目の前で両親を亡くすという壮絶な経験をするが、その空襲の際、死ぬ間際の見知らぬ女性から乳児の明子を託され、強くたくましく育てながら生きている女性。敷島とは闇市で出会い、行く宛が無かったので共に暮らすようになるが、徐々に敷島に好意を抱くようになる。
典子は、敷島にどのように影響を与え、助けになったのだろうか?
振り返りながら考察してみよう。
ところで、一般的にPTSDの治療には、薬以外に認知行動療法というものがある。
患者にとって、トラウマと向き合うのは怖しいことだが、いつまでも逃げてばかりでいると逆効果(悪循環)になるので、信頼できるセラピストと共に、あえてトラウマと向き合い、繰り返し慣れていくことで、徐々に恐怖感が薄れ、フラッシュバックが起きても、体験はあくまで過去の事で、現在のことではない、身の危険は生じない、ということを心身ともに理解できるように助け、克服させる治療法である。
勿論、典子はこの療法を知る由もないが、
典子の存在や言動は、敷島を癒す一定の効果をもたらしたのかもしれない。
まずは、典子との出会い方も敷島にとってはよい刺激となっただろう。
特攻や大戸島の件から、後ろめたく逃げて生きていた敷島の前に、突如、
盗みをして逃げる典子が走り込んできた。
しかも赤子を抱えて。
そうこうしていると、典子は、
自分に赤子を託して逃げ去った。
敷島もこれまで逃げてきた人間とは言え、彼女の逃げる姿は自分とは違っていた。
強くたくましく逃げて生きていた。
その姿は、敷島にとって印象的だったことだろう。
その後ぶじに赤子を返すことができたが、
劇中で初めて敷島は、
自分の素直な感情を吐き出せていた。
\ 身体をしずめてゆっくり休む /
さらにその後も、
強引ではあるものの、自分を信頼して身を寄せる典子や、その寝顔を見て、
敷島は困りながらも、
自分が生きる価値を諦めずにすみ、
自尊心を持つことができたようだ。
ひどい雨の中でも彼が、典子や明子のために良い仕事を一生懸命探している姿は、
収入の良い仕事を見つけて帰ったシーンは本当に印象的だった。
敷島は “家族“ のために生きることを喜び、生き生きとしていた。
でも、見つけた仕事は命の危険を伴う仕事だった。
特攻ほどの命がけではないとは言え、
再び、ある程度自分の命をかけて、誰かのために働く機会だった。
戦争から逃げた自分への、僅かながらの挽回の機会とも考えたかもしれない。
いずれにしても、危険な仕事だと分かった典子は敷島に、
「何言ってるんですか!やっとの思いで生きて帰ってきたんでしょ」
「…死んだらダメです!」
敷島は嬉しかったことだろう。
国のため、呉爾羅から基地を守るため、
“死んでこい” と言われ続けた自分に、
“死んだらダメだ”
と言ってくれる人がいた。
生きることを強く肯定してくれた。
心の傷は残るものの、
典子のセリフや存在は、
敷島の心にどれほど支えとなっただろう。
しかし、
彼の胸の奥にはまだ、
典子の立ち入れない場所があった。
典子は引き続き、
敷島を救って行けるだろうか?
ー
次回へ続くー
次回は敷島だけでなく典子の胸の内も垣間見る。

\ 初月無料!ゴジラ-1.0が観れる /
映画「ゴジラ-1.0」PR
山﨑貴監督
長野県松本市出身。阿佐ヶ谷美術専門学校卒業。
1979年(昭和54年)自作映画『GLORY(グローリー)』撮影。
1986年(昭和61年)株式会社白組に入社。
2000年(平成12年)初監督作品『ジュブナイル』公開。
ー
監督映画
2000年 ジュブナイル Juvenile
2002年 リターナー Returner
2005年 ALWAYS三丁目の夕日 Always – Sunset on Third Street
2007年 ALWAYS 続・三丁目の夕日 Always 2
2009年 BALLAD 名もなき恋のうた
2010年 SPACE BATTLESHIP ヤマト Space Battleship Yamato
2011年 friends もののけ島のナキ Friends: Naki on Monster Island
2012年 ALWAYS 三丁目の夕日’64 Always 1964
2013年 永遠の0 THE ETERNAL ZERO
2014年 STAND BY ME ドラえもん Stand by Me Doraemon
2014年 寄生獣 Parasyte: Part 1
2014年 BUMP OF CHICKEN “WILLPOLIS 2014” 劇場版
2015年 寄生獣 完結編 Parasyte: Part 2
2016年 海賊とよばれた男 Fueled: The Man They Called ‘Pirate’
2017年 DESTINY 鎌倉ものがたり DESTINY: The Tale of Kamakura
2019年 アルキメデスの大戦 The Great War of Archimedes
2019年 ドラゴンクエスト ユア・ストーリー
2019年 ルパン三世 THE FIRST Lupin III: The First
2020年 STAND BY ME ドラえもん 2 Stand by Me Doraemon 2
2022年 GHOSTBOOK おばけずかん
2023年 ゴジラ-1.0 GODZILLA MINUS ONE
2024年 ゴジラ-1.0 /C GODZILLA MINUS ONE MINUS COLOR
ー
アカデミー賞受賞
2024年3月11日(日本時間)、アカデミー賞の発表がアメリカ、ロサンゼルスで行われ、『ゴジラ-1.0』は視覚効果賞を受賞した。その年の最も優れた視覚効果(VFX)を使った映画に与えられる賞で、日本映画が受賞するのは初めてとなった。
授賞式では、俳優のアーノルド・シュワルツェネッガーさんによって、受賞の発表がされ、山崎貴監督ら4人の製作スタッフが壇上に上がり、オスカー像を受け取った。
山崎監督は、英語で以下のスピーチをした。
「私は、40年以上前に『スターウォーズ』と『未知との遭遇』を見たショックからキャリアを始めました。ハリウッドから遠く離れた私にとって、ここは手に届かない場所でした。ノミネートの瞬間、私たちはまさにロッキー・バルボアで、強大な敵の前でリングに立たせてもらえたことが、すでに奇跡でした。しかし私たちは今ここにいます。ハリウッドから遠く離れた所にいるVFXアーティストのみなさん!ハリウッドがあなたたちにもチャンスがあることを証明してくれたよ!最後に、『ゴジラ-1.0』に携わった人々を代表して、阿部秀司プロデューサーに報告したいと思います。俺たちはやったよ!」
ー
>>「気軽に観れる名作:旅のしおり」別の記事>>「便利な映画視聴サービス」
